【Leaf Academy補足資料】品種の夜明け-Ep.4品種が躍動、高品質化に向かう

前回のおさらい

前回のエピソード3では、多田元吉の流れをくむ育種の巨人、杉山彦三郎を中心に、茶のガリバー品種「やぶきた」について学びました。今回はお茶輸出が拡大した大正時代、品種が躍動し茶業界に与えた影響についてを学んでいきます。


ゲスト:

中村 順行 先生 | Yoriyuki Nakamura

静岡県立大学食品栄養環境科学研究院・食品栄養科学部特任教授、食品栄養環境科学研究院付属茶学総合研究センター長


聞き手:

大澤 一貴 | Kazuki Osawa

MYE blend tea atelier代表。江戸時代から続くお茶屋「大佐和老舗」の8代目として生を受け、7代目大澤克己のもとで茶業を学ぶ。合組茶葉専門のブランドMYE blend tea atelierを立ち上げ、茶の品種の奥深さを知る。


※このブログの内容は、以下のポッドキャストエピソードと連動しています。ぜひ合わせてお聞きください。


①大正時代のお茶輸出の拡大

中村先生
中村先生

品種がなぜこの時代急に必要になったかということですが、ちょうど日本は折しも開港、いわゆる徳川幕府から明治政府になるに従ってお茶が輸出されたことを以前お話ししたわけですが、そんな中で輸出向けの紅茶・ウーロン茶・団茶というような各種各様のお茶が作られるわけです。
また、そのことによって輸出がどんどん増え、今ではちょっと信じ難いんですが、大正6年(1917年)には、3万トンという輸出量にも達してくるわけですね。
そうするとどうなるかというと、生産現場においては、お茶の生産が追いつかなくなる、労働力が足りなくなるというような現象が出てくるとともに、労賃が非常に高くなる。手摘みが高くなるということから、よりコストが低く、大量生産が可能な機械化が叫ばれるようになるんですね。まさしくその時には、種子で植えた茶園で自然仕立てだったものが、徐々にお茶を収穫しやすいようにかまぼこ型の茶園になってくる。

かまぼこ型の茶の畝の様子

今に近い形になってくるということですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

かまぼこのような茶園になると、手で摘むんじゃなくって、摘採のはさみを用いて収穫するようになるんですね。
そして、そのようなはさみで摘んだお茶っぱの量は手ではとても揉みきれない量になってきますので、なんとか機械化しようじゃないかということで、製茶機械の開発も行われるのですね。しかしそこで問題になるのは種子で植えた茶園ですと、新芽の生育がバラバラ不揃い、株ごとに違ったものになってしまうわけです。そうしますと、お茶を摘もうにも、手で摘む時には良い芽だけ摘めばいいんですが、はさみで摘採の場合には出た芽を一度に摘んでいくわけですので、これは困ったと。新芽の生育が揃った茶園にしたいとの要望が当然出てくるわけですね。

それはまだ品種ができる前だったので、在来茶園があって、名前のついてないお茶の芽が不揃いに生育していたっていうことですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうですね。そういう風な茶をはさみで摘むと、どうしてもやっぱりバラバラの芽ですから。品質もさして良くならないし、さらにはいいとこだけを摘もうとすると上だけしか摘めませんので、収穫量も減るというふうなことになってしまうのですよね。
これはどうしてもやっぱり芽揃えのいい、均質な芽立ちの茶園にしなきゃいかんと。下からお茶の芽をはさみでも摘めるような茶園にするには品種化が重要で、同じ品質の揃った芽で茶を作りたいという要望が非常に高まってくるわけなんですね。
そしてもう一つは、この時代はもうすでに紅茶の輸出も盛んに行われるようになってくるんですが、この紅茶も日本の在来種から作ると、あまりいい紅茶の品質になっていかないんですよね。
そこでアッサム種というんでしょうか。海外からいろんな紅茶の種子等も導入してくるわけですが。これまた今度は日本の冬は寒くて育たない。寒さに強い紅茶を作りたいということで、日本の寒さに強いお茶と紅茶に適したアッサムとの交雑、交配してそのいいとこ取りをしたような育種による品種開発が望まれてくるわけですね。

なるほど。
日本での紅茶製造はそもそも紅茶に適したお茶が使われていなかったということなんですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

日本のお茶ですとどうしても発酵性が弱いということから、いい紅茶になりにくいということだったんですね。
そこでアッサム種等を導入するわけなんですが、もう先ほど言いましたように、アッサム種は寒さに弱いから日本でなかなか栽培ができない。ここで初めて紅茶用の品種の育種が始まってくるわけなんですね。


②紅茶の品質向上のための品種改良

なるほど。
それによって発酵がしやすく紅茶向けのいいお茶が出来上がったということなんですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうなんですね。
交配することによって、その子供の中には、寒さに強くなおかつ発酵性が高いような、まさに紅茶に向くような子供、個体が出てくるわけですね。
今度はそれを増やしていけば、非常に日本でも紅茶に向いた品種が作れるということになるわけですね。
ところが、そこでまた問題点が一つあるわけです。
増やすのに種子でまいて殖やしてしまうと、またバラバラの形質を持った子供ができてしまうということになるわけですね。
そこで杉山さんの時にも少しお話ししましたけども、挿し木というような栄養繁殖技術が必要になってくるわけですね。

いわゆるその子供を作るというよりかは、もうわかりやすく言うと、クローンを作るという認識でよろしいですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうです。
増やすための方法としてですね、種子で殖やすんではなくて、クローンで殖やしていくということが品種の普及にとって非常に重要な要因になってくるわけです。
そして、そのような品種はクローン技術が開発されてくると、紅茶を例に取ると、寒さに強く発酵性の良い子供ができた、じゃあすぐにクローンを殖やすというようなことになります。すると茶園が同じ芽立ちで同じ色をした茶園に変わってくるわけです。
そうして新芽や生育時期が揃ってくると病害虫の発生時期が揃ってくる。揃ってくるということは防除が一斉にできるということになりますよね。
また肥料などもですね。芽の出る時期等が揃ってきますので、肥料も同じようにやることができる。
さらにはお茶の芽の摘採も一斉に均一化した芽が揃って出てくるようになってきて機械化しやすくなるという良いことづくめに変わってくるわけですね。
 

同じものが連なってるわけですからね。
芽が出る時期、病気になる時期、肥料を与えるのにいい時期がわかる、全く同じだっていうことですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうしますとですね、茶園から獲れた芽も非常に均質な芽になってくるわけです。均質な芽ですので、今度はそれを製茶加工の現場においても、蒸す時間も一緒でいいわと。揉む力も同じ芽でするので、同じ力で揉んでも非常にいい形質のものができる。

いわゆる揉むっていうのは綺麗に細く撚っていく、整えていく、乾燥も同じように進むため作業がやりやすくなるっていうことですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうです。紅茶の場合には蒸気で蒸したりしませんので発酵になるわけですけども、発酵の度合いも大きな芽だとか、小さな芽が混じっていると、かたや早く発酵する、かたやなかなか発酵しないなんていうことがあるわけですが、それが非常に均一にできるようになる。
均質にできるということはですね、まさしく品質を非常に向上させることができるということに繋がっていくんですよ。

今、世の中で当たり前のように行っているお茶作りが、今まさにここで製法として整えられていくのですね。

大澤
大澤

③品種改良によるお茶業界への影響

中村先生
中村先生

それが品種というものができることによって、初めて可能になったというわけですね。
で、そのことによって簡単に言うならば、品種を植えることによって収量も多く取れるようになるわ、品質も非常に向上するわという風な良いことづくめなんですね。そこでこれはやはり種子で植えたような茶園じゃなくてクローンで植えるような茶園を作るのが、これからの日本の茶業の目指すべき方向だというような機運が高まってくるわけですね。
そしてそれに向くものとしては今まで育成してきた品種がありますので、その中でも特に例えば静岡でしたら「やぶきた」がいいから「やぶきた」を植えたらいいぞと。
九州ですと、もう少し暖かいし、紅茶を作るんだったら「やぶきた」はうまくいかないけど、「べにほまれ」のようなものを作ればいいぞという風になるんですね。
各地域で品種というものを選定し、あるいは奨励するような制度も生まれてくるわけですね。

先生、この奨励するのは、どこの機関が奨励するんですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

一つはですね、国も、お茶の輸出に対して非常に前向きに取り組んでいましたので、こんな品種が素晴らしいもんだから、みんな植えて儲かってほしいということで、農林登録制度というものを昭和28年に作るんですね。
この農林登録制度というのは、お茶という作物として、生産農家が作った時に収量性も素晴らしいものであるし、品質もいいものであるということから、国がお墨付きを与えるようなものなんですね。
昭和28年(1953年)に初めてお茶では登録制度ができるわけですが、その時にすでに今までにいろんな試験が行われていましたので15品種を品種として登録したわけです。
その第一号が「べにほまれ」なんですね。

聞き慣れないお茶の品種ですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

昔の紅茶用の品種なんですけども、まさしく国が輸出にかける意気込みをここで感じ取れるわけですね。
国が育成して、お墨付きに与えるものの第1号は紅茶用の品種ですので、そこが面白いですよね。ちなみに現在、これだけ普及している「やぶきた」は第6号になるんですね。

これだけ普及しているのにも関わらず、第1号じゃないんですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

今で言うと第1号でもいいように思うんですけども、紅茶用の品種を最初にしたのは国としての意気込みをここで感じますね。
で、その翌年の29年には6品種が追加され、これで国としては、21品種皆さんに提示しながら、こんなものを植えるといいぞという風にPRしてくるわけですね。
かたや国が指定しても、いろんな産地、鹿児島や静岡、三重県、京都府があったり、茶種が異なる場合もあったりします。そのため、各府県でも独自に県の奨励品種を決めているんですよね。静岡の場合には、むしろ紅茶用よりも緑茶用を主体に生産したいから、緑茶用の品種として「やぶきた」がいいぜとか、あるいは紅緑兼用のものとして「からべに」がいいぜとかですね。そういうふうな決め方をしていくんですね。
かたや鹿児島の方では、紅茶をもっとたくさん作っていこうということから、紅茶用の品種を奨励品種にするわけですね。京都では昔からやっぱり碾茶、玉露の産地ですので、もう紅茶なんかよりも碾茶用の品種を奨励品種にしていこうぜ、みたいなですね。
ここに初めて各県の奨励品種というのが生まれるとともに、各県でも俺のところに適した品種を育成しようぜということで、育種が非常に盛んに行われるようになってくるんですよね。


農林登録制度と主な登録品種
  • 昭和28年(1953) 農林登録制度 発足、15品種登録
  • 昭和29年(1954) 6品種登録
  • 昭和30年(1955) 静岡県でも奨励品種制度ができる→「やぶきた」「あさつゆ」「やえほ」「ほうりょく」「べにほまれ」「からべに」が採用
  • 昭和33年(1958)紅茶用品種「ただにしき」、昭37年「するがわせ」「ふじみどり」「べにふじ」「はつもみじ」が追加になる

最初は国が決めた20種類の中から府県の方で選定したものを取り入れたんだけど、それでもさらに美味しくできるんじゃないかっていうところで、さらに新しいお茶への品種改良が進んでいったっていう認識ですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

品種の改良はもう少し前からやってるんですが、時代の要請など様々なことが重なり一気にその機運が高まってくるというようなことになるんですね。
今まで種子で蒔いていた茶園から、クローンの茶園に切り替えるというふうなことと共に、今までは名も知れない静岡種とか宇治種とかいう種子を蒔いていた茶園が、品種名の付いたものをどんどん植えるようになってくるというようなことになるわけですね。
で、そのことによって、もっといいお茶をたくさん作ろうということで国の方でもですね、現在でいうと全国お茶の品評会なんかあるじゃないですか。技術を高めようということで、品評会も行われてくるわけですが、こういう品評会には今までは実生の在来種から作られたお茶が出品されていた中に、品種から作られるお茶が出品されるようになってくるんですよ。
そうしますともう一目瞭然。品種から作られていたものは、在来種から作られてきたものより品質も非常にいいものが出品されるようになるわけです。品種への評価が一気に高まってくるわけですね。
品評会で優等を取るためには、品種じゃなきゃいかんぞという風なことも相まって、生産農家の人たちももう次に植えるんだったら、クローンの品種を植えたいということにどんどん変わっていくんですね。

在来と違って、やっぱりその味にむらがないっていうのがあったんですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうですね。安定した品質で、なおかつ量が取れる。
作り方も在来種の場合にはもう新芽の生育がバラバラでしょう。はさみで摘めないわけですよ。摘みにくいわけです。摘んだら芽の大きさがバラバラになっちゃいますのでね。
それが今度はクローンだとはさみでも摘めるぞと、もう本当に大きな革新的なことがそこで起こってくるんですね。

イノベーションだったんですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうなんですね。
本当にこれ大きなイノベーションになってくるわけですね。
それがもう私は、品種化の果たした最初の大きな変革であったと思います。そのことがまた将来の茶業の形態、まさしく生産現場、摘採も手摘みから機械化の方に変える原動力になってきたし、かつ茶工場も手揉みという風なことでしか作れなかったものから、その手揉みの工程を機械に置き換え徐々に、より大きな製茶工場というものがどんどんできてくるようになる。
そのきっかけが品種にあったんだろうという風に思っているわけですね。

最初からその機械化を導入してすごくうまくいったんですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

いやいや、そんなことありませんよ。
ご存知のように機械化で面白いのは、特許ってご存知ですよね。特許の第1号はご存知ですか?
特許の第1号は、やっぱり国力を増強するために、船をいっぱい作るわけ。貿易をするために船が必要です。戦争するためにも船が必要ですね。飛行機を作る技術はあまりありませんので。船は木造船とか鉄にしても、錆びてしまうわけですね。海の上だと。
そのサビをとるために塗料を塗るわけでしょ。そうするとサビがつきにくくなる。あるいは長持ちする。こうやって特許の第1号は塗料が認定されるんですよ。※堀田瑞松氏によって1885年に出願された「堀田錆止塗料及ビ其塗法」
第2号、これはご存知ですよね。

お茶ですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうなんですよ。お茶の粗揉機(そじゅうき)、揉捻機(じゅうねんき)、蒸し機などのお茶機械が2号、3号、4号と続くんですね。
まさしく高林謙三さん。彼が作ったお茶の機械が特許で2号、3号、4号と続いてたんです。
ここにもですね、いかに国をあげてお茶を増産していこうかって勢いを感じるわけですね。そして、この作られた高林さんの粗揉機等が機械化の第一歩として使われるんですね。
もう当初は今のようなエンジンはありませんので、手動式の粗揉機なんですね。それでも手で揉むよりはずっと楽。で、もう葉ふるいから、手で揉むと重労働なところをまずは手動ではあるんですけども、機械化して。最後に仕上げが細く撚るようなところは、機械ではなかなかそこはうまくいかないから、そこは手でやろうっていう風に、半分機械半分手で揉むような時代が少し続いていくんですよね。

最後の整える部分はやっぱり職人さんが。精揉機(せいじゅうき)の部分ですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうなんですね。まだそこまでは機械化ができてこない。精揉機(せいじゅうき)は少し遅れるんですね。
できていても、なかなか手の方がまだ技術が高いということなんですね。

僕経験したことあるんですけど、ものすごい重労働で、特に水分を均一に揉み出していくっていう方法がすごく難しくて、本当に上の部分だけ乾いていっちゃう。そうすると中に水分が残ってて美味しくならないって教えてもらったことがありますけど、あの水分を出すためのすごい力作業が機械でできるとなるとすごくいいですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

とは言ってもですね、人間が作るように最初から機械もうまく水分、芯水を取るという風なところができたわけじゃないんですが、それでも先ほどの重労働から解放されるということのメリットの方がより大きいわけですね。
そして一回その機械、粗揉機(そじゅうき)等々を使うともう手で揉むのが嫌になっちゃうわけですね。ということから、どんどん機械の方ももっといいもの、もっといいものということで、改良がどんどん進んでいきお茶の業界も変わっていく。
それと共に、もう一つの品種を作るメリットとして、今我々は煎茶を中心にしか考えないんですが、輸出を行う場合には、煎茶以外にも、紅茶とかウーロン茶とか団茶とか、玉緑茶とか。様々な茶種が作られていくんですね。
在来種の時代には、同じお茶からそれらの茶種の全てを作っていたんですが、やはり、よく私、学生にも言うんですけども、マラソンを走る選手と100m走る選手、人間ですから、両方とも走ることはできるんですけども、百メートルの選手がマラソンに出ても、マラソンの選手には勝てないですよね。
お茶でも同じように、在来種の同じお茶から紅茶もできるし、緑茶もできるんですけども、先ほど育成した紅茶用の品種には勝てないわけですよ。
同じように碾茶用の品種、あるいは玉緑茶用の品種、それは各々の得意分野の特質があるわけで、その特質を満たすような品種というのもどんどん育成されることによって、各種各様の茶種もどんどん品質を向上すると。こういうところにも育種、品種というものは大きく貢献していくんですね。

専門的な品種が出来上がってくるということですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そこにやはり育種というものが大きく貢献し、茶種ごとの品質をどんどん向上させていく、花開かせていくというようなことで品種が躍動してくるんですね。そんな風な時代なんですよ。
非常に華やかで品種に熱い期待が込められていた時代なんです。
またさらには、もう少し経ってくるとどんどん生産力が増してくる。杉山彦三郎さん曰く、一つの品種には3日間しか摘採適期がないという風なお話もしたと思うんですけども、一つだけの品種ですと、なかなか面積も拡大できないということから、それじゃあ早生(わせ)の品種も作ったらどうか。あるいは晩生(おくて)の品種も作ったらどうかということで、早生品種、中生品種、晩生品種という風にですね、摘採適期の延長をはかるような品種も生まれてくるし、さらには病気に弱い品種、品質はいいんだけど病気に弱いというものに対しては、病気に強いような品種を育成していくし、さらにもう少し経つと埼玉県でも茨城県のような寒い地域でも安定して生産できるように、寒さに強い品種を育成しようぜというような機運も高まってくるわけなんですよね。

新茶の時期で、同じ品種だけだと、もうある一定の期間でしか取れないから。
より多くその茶を作るために早く収穫しよう、遅く収穫しようっていう時期をずらした品種がそれぞれ出来上がっていったっていうことですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

はい。本当に品種が多く出てくるんですよね。ところが、その品種の普及っていうのはなかなかですね。生産農家の方々に、今まである茶園を新しい品種にしようぜ!と言っても、昭和28年とか30年代には品種化っていうのはなかなか進んでこなかったんですね。

これだけ華やかだったといってもですか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうなんですよ。育種の現場ではですね、もう品種いっぱいできてきて、こんなに素晴らしいものがあるのに。植えたら儲かるのにっていう風な気分もあったんですけど。
ちなみに1953年に先ほどの品種の登録制度ができたって言いましたよね。その時の品種の普及率2.9%しかないんですよ。
今、静岡県内では「やぶきた」だけでも90%ぐらいでしょ。ところが当時はほぼ90%以上がまだまだ種子で植えられた時代だったんですね。
それがですね、昭和45年になっても統計を見ますと29.5%なんですよね。徐々にではあるがこんなに品種は素晴らしいっていうことがみんな分かり始めてきて。

国をあげた政策になかなか普及率が広がらなかったのはなぜなんでしょう。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

それは種子から蒔いた在来茶園がみんなあるでしょう。
そこからでもお茶の芽が穫れるからなんですね。そして売れるからなんですよ。
品種がこれほどいい特質を持っていると言っても、やはりその茶園の実生からの茶樹を抜いて、新しい品種に植え替えるというだけの財力、力がまだまだ備わってきてないんですね。農家に。
ちなみに1970年、29.5%、1980年、それから10年たった時に57%までぐっと増えるんですね。
これはどういうことかというと、一つは先ほど言いましたように改殖するっていうのはお茶の木を抜いてしまい、新しいお茶の木を植えてもすぐに収穫できないですよね。そうしたらその間、収益が全くなくなっちゃうんですね。だから貧乏な人にはなかなかお茶の木を切り替えるってことはできないんですね。
そうしますと、昭和30年というとまだ食べるのに精いっぱいな時代なんです。テレビをほとんど買えない時代ですよ。
そんな時代にそこまでなかなか投資できないんですよね。
その後ようやく日本は経済成長がぐっと高まる時期が昭和30年代中盤以降あるわけですね。オリンピックがあったり、東名高速道路ができたり、新幹線ができたり、所得倍増計画とかですね。
この時代になって初めてお金が農家のところにも入ってくるようになる。
そして、また逆に言うと、消費者の人たちもお茶が飲めるようになるんです。お茶を買うことができるようになるんですよ。

っていうことは、それまではお茶は飲まれてないんですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

というか買ってまで飲むようなものでもなかったんですね。
お米を買うのが精一杯ですよ。そうしますと、お茶というのは別に買わなくたってお茶の木があるところの人は、そのお茶の木から摘んでお茶を作って飲んでるわけで、大部分の方はお白湯とかですね。あっても番茶のような安いものじゃないと。今のように急須で飲めるような時代じゃないわけですよね。

じゃあ、一般のご家庭の中にはまだこの頃までは急須自体がそこまで普及していなくて、白湯とかを飲んでいたと。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

白湯とかやかんの中に番茶を入れて飲むとかですね。まあせいぜい土瓶で飲むような時代。それが所得倍増計画じゃないんですけども、結局は経済成長がぐっと上がることによって、煎茶を飲むようになって、お茶も作れば皆さん買ってくれるぞと。
さらには茶園も改植するようなことができるような、生産農家にお金が入り込むような時代が来るわけですよね。投資できるような時代になってくるわけ。

作れば作るほど売れていく時代っていうことに入ってくるっていうことですよね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

投資しても回収できる見込みが見える時代になってきたということによって、初めて新しい品種が植えられる時代が来たという風なことになってくるわけですね。
それともう一つは機械化も進んで、以前はつるはしとかスコップで茶の木を抜いてもう三尺深耕と言いながらですね。1.8mの間隔で1m掘って植えた。そんなじゃなかなか広がらないわけですね。ここに初めて昭和30年代にブルトーザー等々を使って。いわゆる重機などで茶園を増設するような力もできてくる時代に入ってくるんですね。そのことによって、一気に新植茶園、山を切り崩して茶園にするような時代になってくるわけなんですね。

なるほど。機械化がやっぱ後押ししたんですね。それはもう本当に人手が足りないところから大きな発展ですね。

大澤
大澤

【まとめ】品種化によって大きく変化したこと

  • 品質が向上した(品種の品質向上、同質の生葉を最適条件で製造可能)
  • 機械化(摘採機、製茶機械の大型化)
  • 生産管理の同一化 など

【補足】ここまでの流れ

年号主なできごと
1885年高林謙三(1832―1901)による製茶機械が特許2,3,4号を取得する
1898年「高林式茶葉粗揉機」が特許第3301号を取得する
1927年静岡県立茶業試験場より「やぶきた」が優良品種に認定される
1917年茶の輸出量が3万トンに達する
1934年谷田の試験場が静岡県の管理下となる
1953年「やぶきた」が農林水産省の登録品種となる
1955年静岡県にも奨励品種制度ができる(→「やぶきた」「あさつゆ」「やえほ」「ほうりょく」「べにほまれ」「からべに」が採用)
1971年「やぶきた」が日本の品種茶のうち84.5%、静岡県の品種茶のうち89.6%を占めるようになる※

品種がお茶業界にここまでの大きな影響を与えていたということを想像していなかった人も多いのではないでしょうか。

「品種の夜明け」シリーズはまだまだ続きます。次回からは品種改良が日本のお茶生産に与えた影響について詳しくお話を伺います。


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