【Leaf Academy補足資料】品種の夜明け-Ep.3育種の巨⼈杉⼭彦三郎あらわれる

前回のおさらい

前回のエピソード2では、江戸時代の終わりから明治時代にかけて、多田元吉や篤農家たちのチャレンジについて学びました。今回は多田元吉の流れをくむ育種の巨人、杉山彦三郎を中心に、茶のガリバー品種「やぶきた」について学んでいきます。


ゲスト:

中村 順行 先生 | Yoriyuki Nakamura

静岡県立大学食品栄養環境科学研究院・食品栄養科学部特任教授、食品栄養環境科学研究院付属茶学総合研究センター長


聞き手:

大澤 一貴 | Kazuki Osawa

MYE blend tea atelier代表。江戸時代から続くお茶屋「大佐和老舗」の8代目として生を受け、7代目大澤克己のもとで茶業を学ぶ。合組茶葉専門のブランドMYE blend tea atelierを立ち上げ、茶の品種の奥深さを知る。


※このブログの内容は、以下のポッドキャストエピソードと連動しています。ぜひ合わせてお聞きください。


①杉山彦三郎の人物像と「やぶきた」発見までの功労

中村先生
中村先生

中村先生:
前回のおさらいをしますと、輸出が非常に盛んになりお茶が儲かるということで、東洋一の茶園といわれる牧之原台地が開墾されたり、埼玉県、茨城県の方にも多くの茶園が増やされたという流れでした。
そのように茶園は増えても、いいお茶を作って大量に輸出するためにはお茶の原料と製造、加工のバランスが重要となります。現代的に言えば生産及び加工の両面で機械化が進めば効率化を図れるんじゃないかということになるのですが、当時はまだまだ茶の機械化が進んでいない時代。手で摘んで手で揉むという時代だったわけです。

そんな時代に杉山彦三郎が生まれ、活躍したんですね。


杉山彦三郎 Sugiyama Hikosaburou (1857-1941)

安政4年(1857)静岡市安倍郡有度村中吉田(現駿河区中吉田)生まれ。
明治10年(1877)多田元吉につき茶の栽培及び製造の講習を受ける。
紅茶は中国人から学び、緑茶は静岡県の山田文助を招聘し伝習所を開設。茶の育種に一生を捧げる。


杉山彦三郎さんとはどのような方だったんでしょうか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

杉山彦三郎は安政4年生まれ、輸出開始が安政6年ですので2年前に生まれているんですね。そして前回お話した多田元吉が1829年の生まれ、杉山彦三郎は1857年の生まれ。28歳の違いということなんですけれども。多田元吉が静岡に来て、杉山彦三郎が元気に青年になって働き始めるころ。2人は交流を結んでいるわけです。
多田元吉が持ってきた技術や種子などをおそらく引き受けながら、杉山彦三郎はお茶の育種、私たちから言わせると日本のお茶のバーバンク※と言われるような人物になっていくわけなんですね。

多田元吉は明治政府の要人から任命され、海外に行って技術や種子などを持ち込んでそれを普及していたという人ですが、杉山彦三郎さんも海外に行かれて経験を積まれたんでしょうか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

全く海外へ行ったことはないと思っています。
杉山彦三郎自身は、もともと農家ではなく漢方医の息子として生まれ、お茶の育種を行いながら市議会議員なども行ってきたという、非常に賢人であったと思います。杉山彦三郎がお茶にのめり込む中で、彼自身が農家ではないが故に新しい知見、技術を取り入れてどんどん進めることができたんではないかと思います。
様々な茶園を見る中で、「あの株は芽の出るのが早い株だ」「あ、この株の葉は大きくなるんだ」「あ、この株は他の株よりずっと大きくなりやすい」などという誰もが目で見て分かる形質もさることながら、「あ、このような芽の色のものはきっとおいしいはずだ」のようなこと、さらにはそのおいしさを証明するかのごとく、お茶の葉を噛んで味を見たり、実際そのお茶を揉んで製造したものに対しての品質を評価しながら、確かに品質のいいものは噛んでも甘いんだなとかですね。そういうことを習得した人間なのだと思っております。外観だけでなく内質も洞察しようとしていたんですね。

  • バーバンク…ルーサー・バーバンク(Luther Burbank, 1849年3月7日 – 1926年4月11日)は、アメリカの植物学者・園芸家・育種家。多くの植物の品種改良を行った。

1回1回、作って確認する作業を繰り返したということでしょうか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

一般的にお茶は、実際に作って飲んでみないと分からないわけですね。ところが、実際作って飲むとなると非常に手間暇がかかるし、なかなか選抜ができないということから、小さい時に将来どうなるかを推定することを「早期検定」というんですが、これが育種の基本になるわけです。
例えば、茶の芽の出る時期が早いものは、幼木の時も、お茶の木が古くなった時も早いので簡単に幼木期の段階で早生と判断できるんですね。ところが収量性については、小さい時には樹勢がいいからといって、大きくなって株のようにした時に本当に新芽がたくさん取れるかどうか。これは少し難しいところがありまして、工夫を加えて観察していかなきゃいかんということになる。
ましてや品質になると、今畑で見た芽が美味しいかどうかということはなかなか判定が難しくて、実際最終的にはお茶を作ってみないとわからない。とは言っても、私たちも育種をやっていてそうなのですが、概して煎茶用の品種でおいしいものは、ほどよい色合いとか、柔らかい芽であることとか、上品さが滲み出ているとか、なんとなく美味しさにリンクしている。そういう風なところで判断しながら、最後の最後はやはり実際に作って味をみるということを行なっているんですね。

杉山彦三郎さんは、多田元吉さんに学ばれたので、メインは輸出に適した紅茶系の品種を作るということだったんでしょうか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

杉山彦三郎は実は紅茶用の品種も育成しているんですが、メインは紅茶ではなくて緑茶、ただしその緑茶の中でも素晴らしく品質のいいものを作り続けていける早・中・晩生品種の育成ということが強く願望としてあったのではないかと思います。
世界に知られた、特にアメリカに輸出していた「天下一品茶」という日本茶があるんですね。英語で言うと「スパイダーレッグス」要するに蜘蛛の細長い足のように、針のように尖ったお茶をですね、最高級品として輸出してたわけですが。
そのようなお茶を作り続けたい。あるいはそれを作り続けることができるような茶園を持ちたいということが希望にあったようなんです。お茶の芽はご存知のように毎日日々刻々と大きくなって、硬くなってきますので、ちょうど摘み頃に摘んでいかないと天下一品茶のようないいお茶は作れない。ではどうするかというと、先ほども申し上げました通り茶園を見ていると、早く芽の出る茶樹もあるし、遅く芽の出る茶樹もある。だったら早く芽の出る茶樹から遅く芽の出る茶樹までずっと揃えて自分で殖やし適期に摘み続ければ、天下一を作り続けていけるんじゃないかと考えたんですよね。
そこで杉山彦三郎は、早く芽の出る早生(わせ)種、あるいはその中間のタイプの中生(なかて)種。さらには遅く芽の出る晩生(おくて)種を分類しながら、早く芽の出る品種の中でも最高の品質のもの、遅く芽が出る品種の中でも最高の品質のものを揃え、一番茶期の間中ずっと最高の品質のものを作ろうということにチャレンジしたわけなんですよ。

それはうまくいったんですか?早く芽が出たり遅く芽が出たりする茶株の違いが味に影響したりはしませんか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

それは味に少しは違いはあったでしょうけども。天下一のようなお茶を作るために、彼自身毎日茶園をかけずり回った。杉山彦三郎は「イタチ」というあだ名がつけられているわけなんですけども、味を見ながらにおいをクンクン嗅ぎながら、茶園の中を走り回って、いいものがあるかどうか探しまくるわけですね。
そしてこれがよさそうだと思ったら印をつけておいて、実際には自然仕立てにして形質を見て、それでいいとなったらその試験地で殖やしたものを谷田の自分の試験場で、手で揉んで品質をみて、品種化していくんですね。ちなみにそうやって作った品種が百余種にのぼるというんですから、すごいの一言に尽きます。

すごいですね、種類が豊富に作れそうですが。畑の大きさはどれくらいだったんでしょうか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

あの頃はですね、管理のことも含めて、彼自身最初はそんなにお金もありませんので。谷田の試験場を借りようとしたときに1haくらいでいいというようなことを考えていたようなんですが、彼の心意気に賛同した人たちが、まあ大谷嘉兵衛※なんかもそうなんですが、そんな小さな面積じゃ志が立てられないということで一気に3haくらい借りてくれたんですね。

その3haの中で育種をし始めるんですね。ちなみにその時は、先ほど言ったような早・中・晩の品種のみならず、紅茶用の品種も育成したり。さらにはうまい味のものとして玉露というのがすでに出来上がっていましたので、玉露用に向く品種というものも谷田の試験地から選抜をしているんです。

  • 大谷嘉兵衛…(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元年12月22日) – 1933年(昭和8年)2月3日[1])は日本の商人、実業家、政治家。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。

杉山彦三郎さんみたいな人は、他には同時期にいらっしゃらなかったんですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

あそこまで際立った方はなかなか出てこないですよね。ただ明治の初期の頃に倉持さんとか、富永さんとか、小杉さんとか多くの篤農家がいましたよね。彼らが先駆的に在来種の中から優れたものを選抜してきてくださった。それに続いて、杉山彦三郎が次の時代を担うホープとして育種をやってきたということになるんですね。

有名な篤農家(民間育種家)
  • 明治18年頃:牧之原早生(小杉庄蔵)
  • 明治20年頃:富永早生(富永宇吉)
  • 明治20年頃:倉持早生(倉持三右衛門)

杉山さんにしかできない特別な方法がきっとあったんでしょうね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうなんですね。第2回でお話したようにですね、株分けとか、根分けとか根継ぎ、あるいは枝を折り曲げて地面に埋め、根の出た場所で切り取り苗木にする方法だとなかなか数が殖やせないし、品種を殖やすことができないということで、杉山さん自身も非常に苦労して、「杉山式増殖法」を開発するんですね。
まずお茶の枝を1mくらいに伸ばして、その枝を折曲げて先端を残して地面に埋める。最初は折り曲げて地面に埋めたためし枝から1本の苗木しか出来なかった方法を、ムカデのように1つの枝を何回も折り曲げて根の出た場所を切り離し、苗木として2倍とか3倍とか獲れるようにしたり。さらに効率の良い方法として挿し木の技術にもチャレンジして、苦労の果てに挿し木もできるようになっていたんです。

先ほど畑の大きさはだいたい3haくらいじゃないかとおっしゃっていましたが、それは大体お茶でいうとどれくらいの数になるのでしょうか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

株でいうと、現在の株の計算だと10aあたり1800本から2000本の株が茶園に植えられているんですね。そこからの計算でいくと、簡単に1haあたり2万本、3haあたり6万本ぐらい。全く全部が茶園だとする場合ですが。当然中には道路や通路なども入っているでしょうしね。本当はもっと少なかったんでしょうけど。でもそれくらいの個体数を彼は管理していたんじゃないかというふうに思いますね。


②「やぶきた」の発見

それの中でいわゆる「やぶきた」を発見していくということなんですか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうですね。「やぶきた」を発見したのは、その谷田の試験地の中というよりも、他の場所、中林という地名(字あざ)の場所で発見しました。
ご存知のように「やぶきた」というのは薮の北側という意味ですけども、これはよさそうだとだということで選抜されたものを試験地に持ってきて少し殖やして、彼曰く、2aですから現代で言うと400本くらいに殖やしたものを植えて、実際的に生産力がどのくらいあるかや品質がどうなっているか等々を検定していたという経過かと思います。

杉山彦三郎が発見したその他の品種
  • やぶみなみ…薮の南側から見つかったことから
  • こやにし…小屋の西側から見つかったことから
  • こやきた…小屋の北側から見つかったことから

100種近くもお茶を作るというのは珍しいんですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

と思いますよ。他の方でそんなに登録されている方はいませんよね。驚異的な数ですよね。ましてや紅茶用の品種、玉露用の品種を同じ人が作るっていうのはめったにないことですよね。 

自分で作って「いいお茶ができた」っていうのは 自己判断で登録していくんですか。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

この時代はまだ品種の登録制度ってないんですよ。だから俺のところにすごくいい品種があるぞ、名前はこうやってつけたんだ。これ作ってみないか。とかそれはすばらしい品種だ、俺にも作らせてくれ。みたいな感じで名前が広まっていくんですね。

品種の登録上の分類
  • 作物登録品種制度…昭和28年制定。農水省の機関や試験により育成され、収量・品質に優れ優秀性が認められたもの。現在登録(認定)されているのは57品種→煎茶用品種…37品種/紅茶用品種…10品種/玉露・てん茶用品種…3品種/釜炒り茶用品種…7品種。
    「べにほまれ」が第1号、「やぶきた」は第6号。
  • 府県育成品種…茶の主要な生産府県の試験研究機関が府県単独の予算で育成した品種。主に静岡県では煎茶用品種が、京都府では玉露・てん茶用品種が、鹿児島県や三重県では煎茶用品種が育成されている。
    煎茶用品種…18品種/紅茶用品種…3品種/玉露・てん茶用品種…9品種 
    静岡県で育成したものには「香駿」「ゆめすみか」、京都で育成したものには「さみどり」など。
  • 種苗登録品種…1978年の種苗法改正以降誰でも登録できるようになった。
    ex)「星野緑(新芽が黄白色)」が第一号
    ・農林登録(認定)品種関係…33品種/府県育成品種関係…12品種/民間育成品種関係…25品種
    ・新品種育成の母本(ぼほん:種の採取をする植物体のこと)として効率的に利用可能な系統も「茶中間母本農○号」として種苗法に登録 →「サンルージュ(新芽が紫)」は茶中間母本農6号の自然交雑実生から育成

突然、偶発的に突然変異のようにしてできてしまったものも登録できるっていうことですか?

大澤
大澤
中村先生
中村先生

まさしくそうなんです。ですので「星野緑」っていうのが茶での種苗登録品種の第1号で、福岡県の星野村から生まれた白い芽のものなんです。儲かるか儲からないか、生産力が高いか低いかは問題なく、こんなのは今までにないぞということで登録したものですよね。
この上記3つの方法により登録されたものが現在お茶の品種と呼ばれるものなんです。この3つを合計すると130種類くらい品種があります。ちなみに杉山彦三郎の時代にはこういう制度はありませんので、この3つの中に入っていないものは品種としては認知していないんですよ。私たちは系統という名前で呼んでいるんですね。ですので杉山氏が100種類作ったといっても私たちは品種ではなく系統を作ったと把握しているんですね。でもその中から「やぶきた」とか「こやにし」とか「ろくろう」あたりは農林登録品種になってますので、杉山彦三郎が関わった登録品種なんですね。


③「やぶきた」時代の到来

それだけ沢山の品種を作った杉山彦三郎さんですが、現在全国に広がっているのは「やぶきた」ですよね。これだけ全国に広がったのはどういった背景があるのでしょうか

大澤
大澤
中村先生
中村先生

いろんなことがあると思うのですが、挿し木の技術が昭和の初期にできてきたと言いましたよね。その頃お茶の生産増強をはかるために行われていた苗木を配布する事業で、その当初は「やぶきた」ってそんなに多くなく、むしろ「まきのはらわせ」とか「安倍1号」、これも杉山さんが関係するんですけどね。こういう早生の苗木が沢山配布されているんですよ。
ですので品種普及の初期段階では「やぶきた」だけが増えたというわけではないんですね。昭和の初期には需要の多かった早生品種を中心に配布してきたんですけど、どうも早生すぎて霜にあってしまって生産量が上がらない、あまり儲からないというようなことがあったようです。
そんな中でやぶきたも配布されていたんですけど、「やぶきた」の萌芽期が、ちょうど終霜日(霜が終わる日)にぴったりと合致するんですよ。早いものは霜にやられてしまうが、「やぶきた」はぎりぎりやられずに残っている。だから「やぶきた」が1番早いものになってしまう。ということが1つあった。

中村先生
中村先生

もう1つは「やぶきた」は広域適応性といって、どこに植えてもだいたいよく育つんですね。場所にとらわれない、それが2つ目。「あさつゆ」なんかは結構場所を選びますよね。
3つ目は、「やぶきた」はそれまで作られてきた在来種という種子で植えられていたお茶に比べて葉っぱが大きく樹勢が強い。強すぎるくらい強い。ということでうまく作れば収量性が非常に高かったということもあり、徐々に「やぶきた」の時代に入り込んでいくんですね。そしてそれを決定づけるように、全国お茶品評会、現在の全品が開かれた時、「やぶきた」が優等賞をとるんですよ。そのことによって一気に品質にお墨付きがつけられたわけです。日本一の品質のお茶を作るのには「やぶきた」が絶好だということで一気にブームが始まってくるんです。ブームが始まると雪だるま式に、挿し木をして殖やすのも「やぶきた」ばかりになって他の品種を植えたくても苗木がないわけですよね。というわけでやぶきたが広まってきたと考えているところです。
でも、農林登録された昭和28年には、まだ品種化率が3%もありませんでしたので。ほんのごくごくわずかなんですよ。以後急激に、昭和30年代40年代に、品種の普及率が40、50%と上がるとともに「やぶきた」がぐわーっと増してくるんですね。品質・収量性が高いこともありますが、タイミングもよかったんじゃないかと思いますよね。

特に霜に強いというわけではなく、霜の時期から外れてたと。病気に強いわけでもなかったんですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうですねえ。病気には弱いですよ。それでもそれらを押し除けてもタイミング的に合ってきたし、また、農家の人たちが「やぶきた」に合わせた栽培技術を作り上げていくんですね。今までは在来種の栽培の仕方をしていたが、「やぶきた」は葉っぱが大きく樹勢が強いしよく伸びちゃう。じゃあいつごろお茶の整枝したらいいかとか、そういうのも「やぶきた」に適した栽培技術がどんどん揃えられていく。
そして製茶機械も、こんな小さな機械からどんどん大きくなっていく。「やぶきた」の葉っぱが大きいから、力の強い機械は撚りこめるわけですね。そんなことが相まって「やぶきた」に対する栽培、加工技術、さらには品質のPRも行われ、「やぶきた」をお茶業界が育て上げてきている。というふうなことが始まったんじゃないかと思う。これは非常に重要なことで、今品種は130くらいありますが、その中で品種を育成して発表した、いわゆる赤ちゃんを産んだら、その赤ちゃんを育て上げる、その品種に適した栽培法、加工法、販売法、そういうものが揃っていかないと、このようなガリバー品種のようなものはなかなかできてこないんですね。ここ非常に品種の育成と普及にとって重要なことなんですね。

あらゆる条件が重ならないとここまで大きくならないということなんですね。

大澤
大澤
中村先生
中村先生

そうです。重ならなくても少なくとも、生みの親、育ての親、この2つがないと品種というのはなかなか普及していかないということがあると思います。産みの親は、試験場とか育種の人がやればいいのですが、育ての親は業界が面倒を見ざるを得ないかと思います。

やぶきた一強時代への流れまとめ
  • 終霜日の頃に萌芽するため、凍霜害を回避できる最も早い品種だった(早生品種が普及していたが、度重なる凍霜害のため収穫できないことが多かった。)
  • 他系統よりも樹勢・直立性が強く、圧条苗木(木の枝を押し曲げて土に埋め、そこから根が出るのを待って親木から切りはなし、新しい苗木をとる方法)としても増殖しやすかった。
  • 多くの茶産地に適応する広域適応性が高かった。
  • 全国品評会において連続優勝した。
  • やぶきたに代わる優良な品種がなく、苗木の供給がどんどんやぶきたに偏った。
  • これまでの在来種より大きな葉を揉みこめるように機械の熱風量を改善、やぶきたのための製造法の開発が進んだ。
  • 直立型品種に対応した仕立て、栽培管理法・やぶきた以外の香味に対して異味異臭とする動き・やぶきた以外は品種でない、やぶきたの早生、晩生を育成すべきとの要望
    →やぶきたを片親とする品種を育種、選抜する傾向が強くなる

【補足】ここまでの流れ

年号主なできごと
1857年杉山彦三郎生まれる
1877年多田元吉に講習を受ける
1908年「薮北」「薮南」を発見する
1927年静岡県立茶業試験場より「やぶきた」が優良品種に認定される
1934年谷田の試験場が静岡県の管理下となる
1941年杉山彦三郎自宅にて死去(84歳)
1953年「やぶきた」が農林水産省の登録品種となる
1971年「やぶきた」が日本の品種茶のうち84.5%、静岡県の品種茶のうち89.6%を占めるようになる※
※https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E#cite_note-%E9%9D%99%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E5%B3%B6%E5%B1%8B1971-5

お茶に詳しくない人でも一度は聞いたことのある「やぶきた」という品種名。ここまで広まるには様々な要因があったのですね。開発秘話を知っていると、いつものお茶時間がより特別なものになりますね。

「品種の夜明け」シリーズはまだまだ続きます。次回からは品種が現代に至るまでどのように育成されてきたかや、時代のニーズに応じて変化していく品種についてのお話を伺います。


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