前回のおさらい
前回のエピソード1では、奈良時代から江戸時代まで、煎じ茶、抹茶、晩茶など、時代に合わせてお茶が変化していく姿を学びました。今回は、鎖国が終わった後どのようにお茶が変化し、日本で品種というものが意識されていくのかを学んでいきます。
ゲスト:
中村 順行 先生 | Yoriyuki Nakamura
静岡県立大学食品栄養環境科学研究院・食品栄養科学部特任教授、食品栄養環境科学研究院付属茶学総合研究センター長
聞き手:
大澤 一貴 | Kazuki Osawa
MYE blend tea atelier代表。江戸時代から続くお茶屋「大佐和老舗」の8代目として生を受け、7代目大澤克己のもとで茶業を学ぶ。合組茶葉専門のブランドMYE blend tea atelierを立ち上げ、茶の品種の奥深さを知る。
※このブログの内容は、以下のポッドキャストエピソードと連動しています。ぜひ合わせてお聞きください。
①文明開化
前回はエピローグとして、日本のお茶がどのように栽培、飲まれてきたかをご紹介しましたが、今回からは、在来種、種子で植えられた茶園の中から品種というものが生まれてくる、そのお話をしたいと思います。
日本が鎖国を解かれたことによりガラリと世界の一員になってしまう。これまでと全く違った文化、技術が一気に雪崩れ込んできました。
日本のお茶を世界にアピールする良い機会にもなったということでしょうか?
アピールというよりも、まず外国と交易するためのお金が少なく、その資金として、あるいは外国と戦うための国力を増強したいという時にお金をどうやって獲得しようかと考え、江戸時代の後半から日本にあった資産である銀、刀、浮世絵、掛け軸など世界の人々が注目するようなものを売ってきた。もう売るものがなくなってきたというところで、新しい政府である明治政府が世界を見回して、買ってくれそうなものが何かないかと調査したところ、日本国内で毎年新たに生産できる生糸やお茶は外国に持って行っても売れそうだという情報を掴んでくるんですね。そこで生糸は当然ですがお茶も注目されるようになり、お茶を作って外国へ出そうという気運が高まってくるわけです。
品種の観点でいうと、この頃輸出していたお茶っていうのは単一品種なんでしょうか。
いえいえ。前回お話したように、当初は品種の育成・普及はされておらず、種子で植えられたお茶が全国へ広まっていましたので、そのお茶を使って輸出を図ろうということで輸出向けのお茶生産が始まっていくんですね。ところが始まってみると、日本はこれまで抹茶、煎茶、番茶といわゆる緑茶しか作ったことがないわけです。
一方世界の市場を見渡してみると、もうすでに流通している茶は緑茶よりも紅茶の方がずっと多い。そんなわけで日本でも、緑茶は当たり前として紅茶を作らないといけないと。あるいは固められた団茶ですね。これらを作らないといかんということで、政府としてもやっきになって新しい技術を取り込もうとしたんですね。
日本の在来種で紅茶は作れたか?
- 茶樹である以上緑茶も紅茶も作ることはできたが、あまりいい紅茶にはならなかった。
- いい芽は国内消費用の抹茶などに使われ、輸出向けのお茶に使われたのは番茶やヤマチャであった。
- 先んじて紅茶の輸出を行っていた中国の技術に倣おうということになり、中国人指導者が呼ばれたがうまくいかなかった。→多田元吉(ただもときち)に調査の指令が下る。
②多田元吉と紅茶
多田元吉さんは、もともとどういったところに在籍されていた方なんでしょうか。
多田元吉は生まれが1829年ですので、江戸時代の後半に千葉県に生まれた人間です。徳川幕府の小役人だったのですが、明治政府に変わることによって、徳川慶喜と一緒に静岡に付いてくるんですけれども、別に職があるわけでもないから農業をしていた。特に静岡はお茶が盛んなところでしたので、お茶にも関わっていた。多田元吉は非常に勉強熱心で、優れた技術も蓄え、茶の先駆者となっていたのが明治政府の目に留まり、派遣したらどうかということで明治政府が採用に至るんですね。
持ち帰ってきたのは技術なんですか?それとも紅茶に向いている品種の種を持って帰ってきたんですか?
両方なんですね。多田元吉に課せられた課題は「紅茶の現状はどうなっているか」「生産方法はどういうものか」「作る方法はどうなっているか」を調べること。日本は江戸時代まで紅茶というものを作ったことがない、作る機械もありませんでしたので、一から全てを学んでこいというでインド、スリランカ(セイロン)に行かされた。
そこで密林のようなところを分け入りながら多田元吉は、インドからお茶の作り方、加工法、機械、紅茶もいっぱい持ち帰ってくる。と同時に中国種とは違ったお茶の種(アッサム種:紅茶を作るのに向いている品種)を日本に持ち込むんですね。
品種の実験場だった新宿御苑
- りんごやなし、いちご、メロンなども外国から持ち込まれ、新宿御苑にある温室で栽培された。
- 多田元吉がインドから持ってきたお茶の種も新宿御苑で育てた。冬の間に枯れてしまうものもあったし、生き延びるものもあった。数年経つとお茶の木は大きくなり種ができる。その種を、御苑の中だけではそんなにたくさん植えられないので、静岡県、三重県、愛知県、あるいは鹿児島などに配布し、現在の多田系インド雑種が生まれる。
多田元吉著『紅茶製法纂要』明治11年(国立公文書館のHPに遷移します)
なるほど、ここで出てくるのが多田系インド雑種というものなのですね。
そうなんです。そしてこの中から、昭和28年に農林登録される「べにほまれ」という品種が生まれてくるという経過をたどるわけなんですね。
それは多田系インド雑種と何かを掛け合わせてできたのですか?
そうではないですね。お茶というのは自家不和合性といいまして、自分の花粉で種子ができる割合が非常に低く、よその個体の花粉によって種子ができるため雑種になっちゃうんですね。様々な雑種が植えられ、その雑種の中から選抜されたのが「べにほまれ」ということです。
ですので明治10年に多田元吉が持ってきた品種から生まれているものもありますが、さまざまな篤農家(とくのうか)の方が子孫の雑種の中から発見したものもあるのです。
在来種は芽の早いものがあったり遅いものがあったり株ごとにさまざまな形態を持つのですが、当時から芽が早く出て早く摘んだものは相場が高かった。篤農家の人たちも、そのような技術をもとに早くお茶を摘んで出荷すれば儲かるぞということで開発に取り組んだ。
ここで品種の芽が育つというか、きっかけとなるんですね。
【補足】自家不和合性とは
自殖(自家受精による生殖)を防ぐために、自分以外の花粉とだけ交配する仕組み。
③篤農家の発見
ここでいう篤農家というのはいわゆる品種とかを作る方という意味合いでいいんですか?
違いますね。おそらく先見の明があった、あるいは庄屋さんのように指導者的な技術力の高い、少し余裕のある方々ですね。茶畑を見回していて、芽の出るのが早い株を見つけておいて、少しずつ殖やしていって儲かっていくというようなことで、余裕のない人はそこまで手が回らないですよね。全国に篤農家と呼ばれる人がいて、その人たちが品種に類するようなものを作り上げていくんですね。だからもともと育種家であるというわけでもないんですよ。
有名な篤農家(民間育種家)
- 明治18年頃:牧之原早生(小杉庄蔵)
- 明治20年頃:富永早生(富永宇吉)
- 明治20年頃:倉持早生(倉持三右衛門)
ただ先生、そうしてどんどん高性能なものが出てきたのはいいんですけど、雑種がいっぱいできてきちゃうと思うんですよね。同じ品種を沢山作るにはどういう技術が必要だったんでしょうか。
そうなんですよね。先ほども言ったように「牧之原早生」から種をとって蒔いても、同じ「牧之原早生」にならないわけです。もっとも「牧之原早生」は3倍体ですので種子はできないのですが。
そのために、親と同じ形質を持ったクローンと呼ばれるものを作っていかないといけない。そのクローンを作る方法としては、今では挿し木というのが一般的な技術です。
当時は挿し木してもなかなか根っこが出ないということで、一番荒っぽい方法は、一つの株の真ん中を切って二つに分ける。一番簡単ですが2つにしかならないですよね。この方法がまず最初の方法で株分けといいますが、これでは効率よく増えないということになります。
お茶の特質として、新しい枝が地面に着いていると根っこが出ちゃったりするんですよ。それを篤農家の人たちがよく見ていて、じゃあ枝を曲げて地面に埋め込んでやればそこから根っこが出るんじゃないかと。そういうことを習得した人がいて、そこで枝挿しっていうんでしょうか、母樹の枝を地面に曲げて土をかぶせ、根っこが出たら切ると。
さらにはですね、お茶って面白いことに、太根を5センチくらいに切って土の中に入れておくと根っこから根っこが出て芽も出るんですよ。不定芽(ふていが)というのが。昔の人は大きな株を掘って、全部掘ると枯れちゃうから、途中まで掘って根っこを切って、その根っこをまた裁断して、そこから芽を出したり根っこを出したりしたんですね。これは根挿しという方法です。
どの方法が効率的で今に残っているんですか?
根挿しとか株分けは残っていなくて、現在は挿し木という技術になるんですよ。いろんな方法をチャレンジした結果、いずれにしても効率があんまりよくないということで、現在ではもっと効率のよい方法として、日本の場合は葉っぱが2枚、インド等では葉っぱが大きいので1枚をつけて、上手に土に挿しておくと下から根っこが出るという方法で殖やしています。
ですので殖やし方についてはいろいろあったわけなんですね。ところが挿し木というのが非常に高度な技術を要すためにこの時代にはなかなか成功しなかった。
それでもほかの方法に比べれば一番効率が良いのがその方法だったと。
そうですね。ちなみに先ほど茨城の篤農家の倉持さんの話が出ましたが、彼なんかは主に挿し木ではなく根挿しとか様々な方法で殖やしているんですが、彼が新しく茶園を作って10数年かけてはじめて1500、1600本程度しか殖やせなかったということですし、次回お話しする杉山彦三郎でさえ当初は400本くらい殖やすのにおそらく10年くらいかかっているんじゃないかと。いうことでなかなか殖やすのが難しい時代なんですね。
【補足】ここまでの流れ
年号 | 主なできごと |
---|---|
1829年 | 多田元吉生まれる |
1853年 | ペリーが浦賀に来港する |
1857年 | 杉山彦三郎生まれる |
1867年 | 大政奉還・王政復古の大号令 |
1874年 | 大久保利通が「紅茶製法書」を全国に配布 |
1875年 | 中国から紅茶製造の指導者を招く |
1877年 | 多田元吉がインド式紅茶製造法とアッサム種を導入する |
1878年 | 内藤試験場(現新宿御苑)に紅茶伝習所が設置される |
1908年 | 杉山彦三郎が優良系統に「薮北」「薮南」と命名する |
日本が当初輸出に力を入れていたのが緑茶ではなく紅茶だったというのは、意外に思われる方もいるのではないでしょうか。多田元吉をはじめ様々な人の試行錯誤や努力の上に品種の元となるものが作り上げられてきたのだということがお分かりいただけたのではないかと思います。
次回は、育種の巨人杉山彦三郎を主軸に、現代において最も主流な品種である「やぶきた」時代の到来について学んでいきます。
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