はじめに
近年「お茶の品種」がお茶の愛好家のあいだでも浸透してきましたが、そもそも「品種」とはなんでしょうか?お茶だけでなく、米、野菜、果物、植物など、さまざまなものに品種はあります。この「品種」というものはどのような歴史を持っているのでしょうか。そしてお茶の品種はどのように作られ、発展してきたのでしょうか。
Leaf Academyのオリジナルシリーズ「品種の夜明け(全6回+番外編)」では、日本の茶品種の開発の第一線でご活躍されてきた中村順行先生をゲストに迎え、茶の伝来から現代の品種開発まで、茶を中心に徹底的に「品種」を掘り下げて、学んでいきます。
ゲスト:
中村 順行 先生 | Yoriyuki Nakamura
静岡県立大学食品栄養環境科学研究院・食品栄養科学部特任教授、食品栄養環境科学研究院付属茶学総合研究センター長
聞き手:
大澤 一貴 | Kazuki Osawa
MYE blend tea atelier代表。江戸時代から続くお茶屋「大佐和老舗」の8代目として生を受け、7代目大澤克己のもとで茶業を学ぶ。合組茶葉専門のブランドMYE blend tea atelierを立ち上げ、茶の品種の奥深さを知る。
※このブログの内容は、以下のポッドキャストエピソードと連動しています。ぜひ合わせてお聞きください。
今回は日本の茶の起源から、品種開発が始まる明治期の手前までのお話をお伺いします。
①茶の起源
お茶の始まりはいつ頃なんでしょうか。
日本にお茶が入ってきたのは飛鳥、奈良時代。この時代中国は唐の時代で、陸羽によって茶経が記されました。お茶の木の原産地は中国西南地域を起源とする研究者が多いのが現状です。しかしお茶の原産地からお茶の文化が始まったかというと違います。お茶の文化は唐代の国際都市長安で発展しました。この長安(現代の西安)の法門寺から金の薬研が出てきたのでも有名ですね。
茶の伝来
- 神農伝説で知られるように、お茶は最初は毒消しの薬草として用いられていた。
- お茶がなぜ飲まれ続けてきたかというと、毒消しのためだけでなく体にいい成分を含んでいるからではないか。生の葉っぱをばりばりと食べるのはお茶の木が近くになければできない。芽を保存できるようにして1年中飲み続けたい。という思いからお茶の加工が始まったのではないか。
では、日本に入ってきたのは加工されたお茶なんですか?
そうではないかと思います。茶経というのは陸羽という人が書いているのですが、これが唐の時代です。当時唐は世界の最先端、豊かな生活をしていた。遣唐使として日本人が勉強に行き当時流行していたお茶を持ち帰った。種子も持ち帰ったかもしれませんが、お茶を楽しむ文化、お茶を持ち込んだのがはじまりだと思います。
この時代のお茶の飲み方
- 当時はお茶の中にネギや生姜、ナツメを混ぜてスープのようにして加工しながらお茶を利用していたと思われる。
- 葉っぱを固めて干して乾燥させ、飲むときに粉末化したものを煮出して飲んでいたのではないか。
今我々が飲んでいるお茶とは全く違いますね。
国風文化が栄えたころ、遣唐使が中止になって、中国からの文化が一旦途切れた後でお茶はどうなったのですか?
いわゆる、茶にとっては空白の400年と言われた時代の後、再度中国との行き来が復活するわけです。お茶の文化が花開いた宋の時代、この時代のお茶を日本に持ってきたのが栄西禅師なんですね。
お茶の広まり方
- 日本の最古の本「日本後記」に永忠(えいちゅう)という僧が嵯峨天皇に献茶をしたことが書かれている。嵯峨天皇が京都、奈良、大阪、兵庫、滋賀にお茶の種を植えさせた。それも日本にお茶が広まった一つの大きな要因になっている。
- 栄西禅師自身はお茶の効能を訴えながら、明恵(みょうえ)という僧にお茶の種を送り京都の栂尾(とがのお)に植えさせるということを行なった。栄西禅師自身も仏教を広めるために、宗から九州の背振山を通って近畿へ入り、鎌倉幕府に入る。その道中もお茶の種を植えながら、あるいは飲ませながら行ったことからその街道沿いには今もお茶の伝説が残っている。
- 永忠は茶道具も持ち込んだと思われる。茶を粉にする道具である薬研や、臼、茶筅のもとになったものなど。現在の抹茶のようにして飲んでいた。中国から茶碗も持ってきた。日本は須恵器は作ることはできても陶器のような茶碗を作る技術がなかったためこれらが唐物として残り、国宝となっている。
【補足】中国の喫茶法の比較と茶書との関連
喫茶法 | 飲み方の手順 | 代表的な茶書(一部) |
---|---|---|
煎茶法(煎じ茶法) | 固形茶を粉末にしてから鍋で煮出し、いくつかの茶碗に酌み出して飲む。 | 陸羽「茶経(764年頃)」 |
点茶法 | 粉末の茶に湯をかけて攪拌して飲む。茶は固形茶もしくは葉茶を粉末にしたものを用いる。 →茶の湯の源流 | 栄西「喫茶養生記(1211年)」 |
泡茶法 | 葉茶に湯をかけて、味を浸出して飲む方法。 →日本の煎茶道や欧米の紅茶文化の源流 | 張源「茶録(1595年)」 |
なるほど。そうして皆さんがお茶を飲むようになる中で、この頃ですよね、闘茶(とうちゃ)が生まれてくるのは。
そうですね。宋の時代から少し遡って中国で闘茶というゲームが大流行してそれが日本に入ってきました。最初の闘茶は簡単で、永忠が植えさせた栂尾(とがのお)のお茶を「本茶」とし、栂尾から分派した宇治や滋賀の茶を分家のお茶「非茶」としてそれがどちらか当てるものでした。
人気になるにつれて産地を当てるだけでなく、品質の良し悪しを当てるなど様々な展開がありました。闘茶は賭けによってさらに熱を帯び、賭け金が莫大になったりする中で、お茶の本質から外れるということになったのでしょうね。
②支配階級と茶の変化
全国に広まったとはいえ、栄西さんはそんなお茶の姿を見て嬉しかったのですかね。
どうでしょうね。栄西も悲しんだでしょうけども、その悲しみを救うがごとく、やっぱりお茶はこうでなくちゃいけない、ということでお茶の持つ素晴らしさ、フィロソフィーを具現化するために茶道、茶の湯が生まれるんですね。
茶の湯のはじまりと政治との関係
- 茶の湯の主流はお金を持っている商人や武家の人達。この時代貴族達はお茶から離れていく。茶道の流派として村田珠光、武野紹鴎、千利休が日本の茶道の礎を築いた。
- 茶園が作られたのは荘園や寺院の中。僧侶が芽を摘んで医薬品として用いたところから広がり、茶道に使われるお茶や、栂尾・宇治のような産地の広がりにつながっている。それが高貴な人々、一部のお金持ちの人たちに利用されるようになり、武家社会にも入り込むようになった。
- 戦国時代、織田信長、豊臣秀吉もお茶を愛好していたが、お茶のすばらしさを愛好していただけでなく、権力者としてお茶を何かの道具として使えないかと画策した。戦国時代、諸国大名と戦って国を大きくしていく中で、戦勝品として土地やお城を部下にあげて自分の領土を広めていたが、日本の国内はあまり土地がないため、あげる土地がなくなる。そこで土地の代わりにあげるものとしてお茶の道具に目をつけたのではと言われている。
- 茶碗1つで城が買えたという話もあるくらいに茶道具の価値が高くなった。千利休も目利きとして活躍する。中国やベトナムから持ってきた陶磁器もいずれなくなる。そうすると国内で作らないといけなくなる。しかし最初は国産の陶器には値段がつかない。そこで千利休のお墨付きということになれば、どんどん生産できる。そうして安土桃山時代の陶磁器が発展した。
そのように権威を持った千利休も切腹という形で時代が変わりますが、一般庶民の方に話を戻すと、庶民も茶の湯を楽しめたのでしょうか?
私自身その点は勉強不足でよくわからないが、お茶が寺院の茶園や荘園で植えられているところから、種でどんどん増やされていったと思う。増やされることによって「そんなにすごい飲み物なのか」と。そうなると人間はみんな飲みたくなるじゃないですか。良い芽のところは身分の高い人が持っていってしまうから、下の方の葉を使えばいいんじゃないかと。
例えば湯通しして乾燥させて焙じて飲んだり。あるいは抹茶を真似して。現在では振り茶と呼んでいるんですけども、同じように泡立てて飲むようなことをしていたんじゃないかと思うんですね。
庶民の茶の飲み方
- 江戸時代くらいになると、今では考えられないが、お茶の種をまいて、枝から鎌で刈り取った。そのままそれを蒸したり、湯通ししたり、釜で炒ったりして飲むような人が出てくる。お茶の利用法として成立する。庶民のお茶というのはそのようなものではないか。
- その名残として各地域に残る晩茶がある。「足助の寒茶(あすけのかんちゃ)」は、愛知県の足助地域で冬、ちょうど糖分が乗った山裾に生えているお茶の木を刈り取り、大きな木桶に枝ごと葉を入れて蒸気で蒸し、それを乾燥させて飲むお茶でまさしく地方茶、番茶である。
- 京番茶やボテボテ茶なども同様に、良い芽は抹茶にしたり、あるいは普通の高級なお茶にしたりするが、その他の部分を全て使ってその地域独自の飲み方が成立してきた。
僕らが飲んでいるような急須に淹れて飲むお茶っていうのはまだ出てこないんですね。
そうなんですね。まだ出てこない。そのお茶が出てくるのは江戸時代。安土桃山から江戸時代の初期にかけてです。お抹茶の文化は急須で淹れる煎茶よりも早く千利休によって大成する。お抹茶というのはお茶の葉っぱ全部を体に取り込むという飲み方ですね。ところが現在私たちが飲んでいる急須を使った飲み方は、お茶の葉から出るエキスを飲むという飲み方。これは飲み方と道具が違うんですね。
この道具が入ってくるのが江戸時代の中期。この時代中国は宋の時代から明の時代になるんですけども、急須で淹れる、茶瓶(ちゃふう)で淹れる文化がある。ウーロン茶を淹れるような文化。「工夫(くんふう)茶」とでもいうのでしょうか。そのような文化が隠元禅師によってもたらされる。急須の元となるような文化と共に釜炒り茶(釜で炒って乾燥させる方法)も伝えられる。そのことによって現在のような急須で淹れるお茶の元が出来上がってくるんです。
- お抹茶は茶碗で飲む。急須のない時代は、大きな鍋の中にお茶っぱを入れて、薬草のように煎じて飲む。あるいは茶釜の中に入れて煎じて、その煎じた液を茶碗、飯茶碗に入れて飲む。
煎じずに、直火にかけずにお茶としての道具だけで飲むというのは画期的だったと。
そうなんです。そうなるとお茶の作り方も変わるわけです。お茶からおいしい部分、エキスだけを抽出しやすくする技術が必要になるわけです。そんななかで生まれてくるのが永谷宗園。煎茶を作った人とよく言われていますが、良い芽を蒸して急須の中に淹れて飲むと非常においしいということを提案する。当時は青茶と言っていたがそれが現在の煎茶ということになります。
ちなみに当時は、「煎じ茶」なんですよね。さっき言ったように薬研で粉末にしたお茶を煎じて飲むわけでしょう。永谷宗園が作ったお茶も煎じ茶と呼ばれていたが、現在は「じ」がとられて「煎茶」になっている。変ですよね。煎じて飲むのが煎茶なのに。その名残がずっと続いているということですね。
永谷宗園について
- 永谷宗園は庄屋さんであり仏教とは関係がない。この時代は徳川幕府によって抹茶の生産地が許可制となり宇治に限られていた。それでも抹茶で使うような美味しい芽でお茶を飲みたいということから、永谷宗園のような人が開発していった。
- 永谷宗園自身は仏教と関係ないが、お茶が発達、発展してきた過程には仏教的要因も大きく関わる。その時代の背景として売茶翁がいる。売茶翁は僧侶なので、本来であれば抹茶を飲む身分の方だったのだろうが、江戸時代、茶の湯の世界の腐敗を改善したいという考えだった。そこで隠元禅師が持ってきた釜炒り茶のような急須で淹れるお茶の文化が、時代を作り替えることができるのではないかという心持ちを持った。寺の門前で、これぞ抹茶とは違った、権力とは違った青茶だということで広まっていった。そこにちょうど永谷宗園のお茶や、その後改良される山本嘉兵衛の玉露等が続いていく。
時の権力者は抹茶、一般市民は煎茶を飲みはじめていたと。権力者も煎茶を飲むようになるのでしょうか。
高級な煎茶を飲んでいたでしょうが、ちょっとわかりません。
徳川幕府が江戸や駿府でお茶を飲みますよね、だからお茶壺道中というのがあるわけです。ただ例えば、本州最北端の弘前城。岩手の南部藩とか秋田の佐竹藩。東北の方の大名はなかなか手に入れることができないからお茶というのは憧れの飲料ですよね。自分のところに殖産業としてお茶の種を蒔かせるんですよね。
だから南部藩、今の盛岡には茶畑という地名がまだ残っているし、秋田県の能代には檜山茶がまだ残っていますよね。宮城県の伊達藩にもお茶の産地が作られていくわけです。
各大名たちが自分も飲みたいし、乾燥させて加工すれば色々なところに流通させることができるしということで殖産業として植えさせるんですね。そのことによって一気に広まるんですよ。
どこでもお茶が獲れたということですよね。そうすると。
そうですね。儲かったかどうかはいざ知らず、自分の領土内で作って飲むことができるようにしようとしたと。今だと茨城などが経済限界とか言いますけど、全国の様々な藩、弘前藩とか秋田の佐竹藩とか東北の寒いところでもお茶が作られているんですね。
煎茶法なのか抹茶なのかわからないけど、それぞれでお茶が飲まれていたということなんですね。
そう。このようにお茶の産地が広まったということなんですね。面積が広まったということはお茶もたくさん獲れるようになるから、だんだんとみんなもお茶を飲めるようになってくる。だから江戸時代なんかは東海道などの街道沿いにはお茶屋がいっぱい出て、旅人にお茶を出すことができるくらいにはお茶の量が獲れるようになってきたというわけですね。
③江戸時代までの品種
いろいろな土地で栽培されていたお茶は、品種という観点からみると全部同じなんですか?
そうなんです。例えば、秋田県で作るようなお茶は、冬は雪が1mも2mも積もるんですよ。だから寒さに弱い木は生存できず、雪に耐えられるお茶の木だけが残ってくるわけです。その種が落ちて、また寒さに強いお茶だけが残る。ですので、同じお茶の木でも、秋田県で現在見られるようなお茶の木と、温暖な地方でみられるお茶の木は形もおのずと変わってきます。
これらは品種とは呼ばずに地方種と呼んでいます。例えば宇治にあるお茶は葉が丸く、旨味が強く、病気に弱い、宇治種と呼ばれるお茶のグループです。静岡は葉っぱが細長く、芽が立って、量が獲れる駿河種。茨城は寒いから葉っぱが小さい茨城種。ビンカとも呼ぶ。このようにその地域にあったお茶に分化している。それが品種の元となっているんですね。
【補足】ここまでの流れ
年号 | 主なできごと | お茶の流れ |
---|---|---|
764年頃 | 陸羽によって「茶経」が書かれる | 固形茶を粉末にして煮出したもの |
815年 | 永忠が嵯峨天皇に献茶。お茶が登場する日本最古の記録「日本後記」記される | |
1191年 | 栄西禅師が宋から茶の種を持ち帰り背振山にまく | |
1214年 | お茶の効能について述べた「喫茶養生記」を記す | 粉末の茶に湯をかけて攪拌して飲む(抹茶) |
1207年 | 明恵上人が茶の種を栂尾にまく | |
1320年~ | 本茶と非茶を当てる闘茶が盛んになる | |
1486年 | 武士の間で茶の湯が流行する | |
1654年 | 明から渡来した隠元禅師が「淹茶法」を伝える | 釜炒りした茶葉に熱湯を注いで飲む(釜炒り茶) |
1738年 | 永谷宗園が蒸し製煎茶を完成させる 市民に煎茶が広まる。 | 蒸した茶葉を揉み乾燥させたものに湯を注いで飲む(蒸し製煎茶) |
1835年 | 山本嘉兵衛によって玉露が開発される | 茶葉に覆いをかけて育てたものを揉み乾燥させたものに湯を注いで飲む(玉露) |
飛鳥、奈良時代から江戸時代まで、品種の夜明けに至るまでの長い時間の茶の変遷についてお話を伺いました。薬としてやってきたお茶が高貴な人々に好まれる飲み物となり、やがて一般の人も飲むようになるまで、様々に姿を変えてきたことがお分かりいただけたのではないでしょうか。
次回はいよいよ、品種の夜明けである明治時代のお話を教えていただきます。
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